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福島第1原発事故、国と東電に責任-前橋地裁が賠償命令 [東日本大震災]

東日本大震災の津波に伴う東京電力福島第1原発事故をめぐり、事故が起きる危険性を知りながら対策を取らず、事故を招いて住民に損害を与えたとして、福島県から群馬県に避難した45世帯137人が、東電と国を相手取り、1人1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が17日、前橋地裁であった。

裁判長は「原発事故の予見や回避は可能だった。国は原発事業者に対する規制権限を果たさなかった」と指摘。国と東電に、原告計62人に対し、連帯して7万~350万円の賠償を命じた。ほかの原告の訴えは棄却した。

原発事故の法的責任追及で、予見・回避可能性を認める判決は初とみられる。原発事故による損害賠償を求める集団訴訟は全国で約30件起こされており、原告数は計約12000人に上る。集団訴訟の判決は今回が初めてで、今後の各地裁の判断に影響を与える可能性がある。2017.3.17 15:36 産経

本ブログでは3月11日から15日まで、東日本大震災を今後の教訓にしなければとの思いから、筆者の経験したことを綴った。その中で最後の記事で原発事故は「想定外」で済まされる事故ではない、と感想を書いた。

今回の判決は明確に「想定外」ではなかった、という判断である。つまり

① 東日本大地震級の地震は予見できた
② 東京電力は予見できたのに、対策を怠った
③ 国は予見しながら東京電力に改善命令をしなかった(無作為の責任)

と言う事である。筆者はブログ(貞観地震、享徳大津波、そして東日本大震災)で、東日本大地震は予見可能かを記事にしている。その内容は

「現在の建築基準では、200年から500年に一度の極稀な地震時に建物が倒壊しないよう定められている。東北大震災は「1000年に一度」の地震ということで「想定外」と言われるが、今回の享徳大津波の実証から東北地方では600年に一度の地震となったのである。そうなると、建築基準の極稀な地震と同様に見做すことになるのではないか?」というものであった。

又、別のブログ(地震予知を諦め、大規模地震対策特別措置法を改正)では

「天気予報のように過去の気象データが膨大にあれば、統計学的な推論が出来る。しかし大地震のデータは1000年に一度では、今回で2個のデータしかない。統計処理(標準偏差)のためには最小3個のデータが必要である。つまり「科学的」な裏付けがない限り、科学者は推論しない性分がある。
阪神淡路大地震の時、1000年に一度の地震だから「想定外」と言われたから、「想定外」を学習していたはずである。地震学者なら「貞観地震」のことは当然知っていたはずである。しかし公共放送(注:東日本大震災の2日前に震度5の地震があった時のNHK)で1000年に一度の地震が起きる「かも」しれない、とは「科学者」には言えなかったのだろう。」

とも指摘している。

以上のように筆者も又、今回の判決の「予見は可能だった」ことを首肯しているが、しかし裁判はあくまで「法的責任」があったかどうか、である。後から振り返って「タラレバ」で判決するのはおかしい。「法令不遡及の原則」は守らねばならないからである。

一方では、1980年代に起こった「薬害エイズ事件」は、血友病患者に対し、加熱などでウイルスを不活性化しなかった血液凝固因子製剤(非加熱製剤)を治療に使用したことにより、多数のHIV感染者およびエイズ患者を生み出したことを思い出す。

この事件でも、既に「非加熱製剤」の危険性は医学界、厚生省は知っていたのだが、直ちに法令整備して禁止するのは無理としても、当時のミドリ十字(現在の田辺三菱製薬)と化学及血清療法研究所に対し行政指導の禁止命令をしなかったのである。

時代は急速に変化しており、産業界はもとより、学会、行政も決して安閑としていることは許されない。原発の様な極めて被害が大きいリスクに関しては、もはや「拙速」を理由に先延ばしは許されないのかもしれない。

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東日本大震災を教訓にしなければならない-5 [東日本大震災]

通勤に関し問題になったのは、ガソリンスタンドの開業に制限が掛かったことである。筆者は家から近くの駅ではなく、一つ前の駅まで家内に送ってもらっていたのだが、ガソリンが少しづつ無くなってきたから不安になったのである。家内も買い物に出かけるのに使うので、毎日自転車でガソリンスタンドが開いているか確認することになった。空いていればすぐ帰宅して車で給油に並ぶのである。スーパーの食料品については震災直後の買溜めはなくなり、普段のように商品が並ぶことになった。

問題が残ったのは、当時「終の住処」を建てていたのだが、バスユニット(給湯器も)とシステムキッチンの品不足となって、何時入ってくるか分からない、と工務店に言われたのだった。建設業全体としても建設中のマンションやホテルも同様で、工期延長の話題が上ってきたのである。

これは組立製造している工場が東北地方の部品工場の建物や製造機械の損傷を受けて、操業停止になったためである。自動車などもそうなのだが、組立部品は各々全国に分けて製造されており、一か所の工場ですべての部品を作ってはいないのである。従って「ある部品」の工場が操業停止となれば、その製品は組立できないのである。

トヨタの「看板方式」は合理性を追求した結果なのだが、在庫が無いため「ある部品」の工場が操業停止となればもう自動車はできなくなる。最近も火災事故で生産停止になったが、東日本大震災では多くの部品工場が被害を受け、生産できなくなった。やはり「同じ部品」の供給先を複数持つことが生産の安定につながるのである。トヨタが通常の操業の戻るのには3カ月を要した。

しかし最大の問題は東京電力福島第一原子力発電所の事故である。福島第一原発は原子力の商業発電所の嚆矢である。原子力発電の要諦として、いかに核分裂を制御するかであり、その一つが冷却である。核分裂による発熱を100%電力に変換することはできないからである。

日本では冷却には海水を使っており、すべての原発は海沿いに建設されている。東日本大震災では大津波が発生し、東日本を襲った。福島原発では当然津波を想定していたが、波高は6.5mであり、今回の津波は10mを超えるものであった。

原発の尤も重要な建物はリアクター建屋とタービン建屋である。この建物は耐震構造で、震度7でも機能維持されるほどの強度を持っている。大津波にもこの2つの建屋は損傷を受けなかったが、自家発電建屋とポンプ室建屋が津波に飲み込まれ、損壊してしまった。このことにより冷却制御機能が失われたのである。

核燃料棒は地震動を検知すると冷却水中に下げられるが、核分裂は直ぐには止まらないから冷却水は徐々に高温となっていった。その冷却水は、本来海水によって冷却され、温度管理が出来るのだがその機能が失われたのである。東電の現場では懸命の復旧を試みていたが、先ず、海水ポンプを動かす電力が無かった。

自家発電所は破壊され、又、東北地方からの送電線は強震動によって鉄塔が損傷を受け、送電線が破断されていた。さらに不幸だったのは、電気系統のシステムが米国のGE製であり、現在の東芝、日立などとは異なっていた(電圧、ポンプ仕様など)ことである。

そして遂に水素爆発が起こったのである。リアクター建屋の屋根が吹き飛び、高度の放射性物質が拡散した。旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故は対岸の火事ではなく、日本で起こってしまった。1000年に一度と言われる地震だから、「想定外」と言って済まされる問題ではなかった。今もなお廃炉までの道筋はつけられてはいない。

東日本大震災を教訓とすべく、当ブログの分類で「大地震対策」に書いております。

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東日本大震災を教訓にしなければならない-4 [東日本大震災]

翌朝起きたのは昼近くで、テレビは全てのチャンネルが震災の状況を伝えている。民放ではコマーシャルは無かった。改めて大変な災害であることが伝わってきて、自分の家族、家が無事なことの有り難さを思い知った。

近くのスーパーに行くと多くの食料品が無くなっているのに愕然とした。昔のオイルショックの時のように、漠然とした不安から買い貯めが起こったのである。実際、千葉県の石油コンビナートに火災が発生し、ガソリンの供給に支障が出てきたのも原因だろう。ロジスティクスが機能しなくなると、こうも容易く生活基盤が崩れるものなのである。

しかし地震が遠隔であったことから電気、ガス、水道等は問題がまだ無かったのは幸いとしか言えない。一方で多くの犠牲者と遺族、避難者がいる。阪神大震災の時もそうであるが、僅かな距離の違いで一方は天国であり、一方は地獄となってしまうのが大災害なのである。

電気については3月14日から計画停電が始まった。福島第一発電所が機能停止し、その他の原発も停止となった為である。1日のうち4時間停電する計画であったが、家では近くに緊急病院があったせいか、計画停電は無かった。しかし実家の地域では実施され、まだ冬の寒さの為エアコン、炬燵が使えなくなった。そのため充電式の懐炉が欲しいと老母に頼まれ、ネットで注文出来たのは助かった。実家では火災が怖いのでファンヒーターは無かった。

会社では同じフロアの24名用の会議室に対策本部が設けられ、東北支店への支援を行っていた。支援内容は主に被害を受けた建築物に対するものあった。被災程度の判定は設計本部から構造設計者が派遣され、筆者のいる部署では主に連絡調整作業である。なお若手が数名派遣されている。

筆者の専門である基礎構造・工事、地下工事に関してはまだ出番は無かった。勿論、出張すれば何かしらの役に立てたとは思うが、宿泊の手配が付かないこと、及び還暦前の筆者には怪我でもされたら困る、という事もあろう。

この様な日本中が影響を受けるほどの東日本大震災であるが、筆者には当分直接の被災地への支援要請は無かった。しかし考えてみれば、例えばボランティアを行うにも、先ず交通手段を選び、宿泊と食料と水は自分で確保する必要がある。しかも個人で全てを行っても、実際に現地でどの様な支援をするかは、受け入れ態勢が整わなければ何も出来ないのである。

出来ることは結局、義援金を出すことくらいなのであった。今回は会社から全社員に義援金の要請が回覧された。又、会社には心臓手術の為渡米する子供への援助など、様々な義援金を送るグループが出来ていて、筆者の部署にもメンバーがいた。筆者は両方に僅かではあるが提供した。

又、ネットでは被災状況の写真やその他情報が掲載されていた。将来それらが筆者にとって役に立つデータになるかもしれないが、際限なく情報がアップされており本来の業務に支障をきたす。やはり自分本来の業務を粛々と行う事が、この非常事態においても必要なのである。

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東日本大震災を教訓にしなければならない-3 [東日本大震災]

都営地下鉄大江戸線の最寄り駅までは、歩いて15分位であるが、今まで実際に歩いたことは無かった。最短経路を調べると住宅街を通ることになるので迷いそうである。会社の同僚はやめた方がよい、とアドバイスしてくれたが、会社の椅子ではとても寝られそうにないので決心したのだった。

それは数年前にインドネシアに出張した帰りの便は夜行しかなく、特に飛行機の中でもあって全く寝られなかった。朝5時に成田について、ようやくの思いで家に着いたが体調を崩して、2日間寝込んだことがあったのである。

懐中電灯は何時も鞄に入れてあり、ネットから印刷した地図を持って駅に向かった。会社からはカロリーメートと500mlの天然水を貰っている。元々入れてあるカロリーメートと500mlの天然水とで重いが、手提げ鞄はリュックにもなるので苦ではない。

しかし住宅街に入りやはり迷ってしまう。目印の高層ビルは住宅が密集しているから見えないので、見当をつけて行くしかなかった。住宅街に街灯はあるのだが、所々に暗いところがあって、やはり懐中電灯は必要である。ようやく大通りに出た時にはひと安心であった。

駅は帰宅する人々で溢れていた。改札に入るには1時間を要し、更に改札を通ってもまだホームには行けず、又1時間くらい待った。そしてホームに並んだのだが、運転再開とはいえ、運転間隔は10分位で、来る電車はどれも満員であった。ようやく乗り込むことが出来たのは駅についてから3時間が経過していた。

いつもの私鉄の乗り継ぎ駅までは30分位で着き、ようやく帰宅の目途が立った。私鉄は家の近くの駅の一つ前の駅と山手線駅との往復運転であった。一つ前の駅から家まで歩くと20分くらい掛るから以前は自転車で通勤していたのだが、50歳前からは毎日家内に車で送迎してもらっている駅なのである。

その駅から出ると、駅前ロータリーは人と車で大混雑しており、とても家内を呼べる状態ではなかった。諦めて歩くつもりになったが、帰宅していた娘が自転車で来てくれることになった。迎えに来てくれた娘はランニングで、私が自転車で帰ることが出来た。

帰り道の道路は車が渋滞していたが、自転車なので巻き込まれなかった。しかしこの私鉄沿線には東京に通勤通学する人は多く、一駅先の筆者はまだ良かったのだが、更に先の駅の人たちは自家用車に頼るしかなく、この様な渋滞になったのである。

家に着いたのは午前3時近くであった。還暦まであと1年の筆者にとって厳しい一日であった。土曜と日曜で十分回復できると思い、床に着いたのであった。平穏な一日が如何に大切で有り難いものかを知ることになった。

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東日本大震災を教訓にしなければならない-2 [東日本大震災]

津波の映像は戦慄を覚えるものであった。高さは10mを超えて、波とはいえ壁の様に横一線に押し寄せてきたのである。瞬く間に500ton位とみられる船舶を持ち上げ、家屋にぶつかり、S造の建物に衝突して破壊していく。

小型船の浮遊は数知れず、それ以上に家屋の残骸が浮遊している。津波は勢いを止めることなく遡上していった。中にはほぼ形をとどめて流されていく住宅もあり、信じられない光景である。洪水や土石流でも同じような災害となるが、明らかに規模が違った。

津波が襲ってきたのは、地震の発生後15分位で第1波が観測され、それは0.5m程度であった。第1波は直ぐに報道されたが、本当に恐ろしい第2波はそれから20分位後に来たのである。第1波と第2波の間に消防隊員や役人、教員が逃げ遅れている人々の確認の為高台から降りて行った。

全ての地上波のテレビは被害状況を伝えていた。現地からのリポーターはあまりの悲惨な状況を前に声を震わせ、泣きながらの中継であった。筆者は阪神大震災直後に視察に行った時の動揺を経験しているので、リポーターに同情した。

テレビでは時々刻々犠牲者数を報道していたが、その数は増え続ける一方、行方不明者については役所の建物が破壊された為、住民台帳が無くなり確認作業は難航していた。又、避難している人たちはまだ避難所が指定されてなく、情報は集約できる状況ではない。

当日は粉雪が降っており、厳しい寒さの中で夜の帳が下りてきた。避難してきた人は高台の役所や学校の体育館に集まった。しかし着の身着のまま逃げてきたので、防寒の用意は無い。消防や警察、自衛隊等の隊員が毛布やパンなどを配っていた。山崎パンの配送車では運転手が会社の規則で、全てのパンを無償で提供したことが伝えられた。

筆者の勤務する東京では、一部で震度5強の地震動となったが建物の被害は無かった。しかし公共交通機関は全て不通となった。筆者は1時間半かけての通勤だから歩いて帰ることは困難である。

途中で適当な休憩所が無い限り、約40kmの道を歩き続けるのは体力的に難しい。しかも帰宅者は100万人単位だから、大混雑となり休憩所など使えるとは思えない。若い同僚の中には歩いて帰宅するものがいた。後で聞いたら4時間掛ったそうで、道路は人で埋め尽された状況であったという。

筆者の机の下にはブランケットやシリアル食品、お菓子、天然水があるので、会社に泊まることにした。とりあえず夕食を調達しに近くのスーパー、コンビニへ行ったが、パン類やお菓子、バナナなどは売り切れていて、インスタントラーメンくらいしか無かった。仕方ないので幾つかラーメンカップを買ったが、結局、後日家に持って帰った。

1階にある食堂では「炊き出し」と称して「おにぎり1個」「味噌汁」が提供された。しかしエレベーターは非常用しか動かず、下りは階段で降りた。シリアルやお菓子ではない、暖かい食べ物は嬉しかった。

10時頃になって都営地下鉄大江戸線が動き始めたので、帰る決心をした。

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東日本大震災を教訓にしなければならない-1 [東日本大震災]

6年前の2011年3月4日(金)に筆者は仙台に出張し、11時過ぎに着いて有名な「牛タン」を昼食に食べようと物色していた。「利休」という有名な店で牛タン定食を食べて、牛タンの均一な噛み応えと、スープに沈んでいた尻尾の滋味を満喫した。東日本大震災の丁度1週間前である。

東日本大震災が発生した当日は会社にいて、最初に震度2位の揺れを感じ、30秒くらいたって震度5位の揺れとなった。明らかに遠方で大地震が発生したと思った。最初の揺れがP波(Primary wave:第一波、または Pressure wave:圧力波)で、後の揺れがS波(Secondary wave:第二波、または Shear wave:剪断波)である。

S波到達後、館内に緊急放送が流れたが、聞くまでもなく直ぐ机の下のヘルメットを被り、机の高さより下に蹲った。おそらく柱-梁接合部からだろうが、「ギシギシ」という音が聞こえ、これは大変な地震であると考えた。

会社は2008年にできた本社のサテライトで、柱がSRC、梁がS造で、桁方向が6.4m12スパンの純ラーメン、梁間方向は2スパンで事務室はスパン14.4m、共用スペースのスパンは11.2mでラーメンに制震装置が取り付けてある。建物の桁方向は北東であった。

S波は10分以上続いたが、揺れは桁方向のみとなって行った。1方向の揺れの振動台実験にいる気分であった。純ラーメンなので柔らかいのだが、14階建てなので周期は1.5秒くらいで、やはり長く続いた揺れの周期はおよそ1.5秒であった。

それに対し、正面の窓からは赤坂六本木地区のANAホテルと森ビルが見え、この2つの建物の揺れは明らかにゆっくりとしていた。4秒位の周期に揺れていたのだが、振幅は片側で1.0m位ではないだろうか?

10分以上揺れている最中に、テレビでは東北地方での大震災の状況を報道していた。宮城県沖でマグニチュード8.8と最大級の地震であることだった。このマグニチュードは8.8(最初は8.4と報道)は当時気象庁が採用していたマグニチュードの推定式による最大値であり、後に国際標準の算定式で計算すると9.0となり訂正している。

揺れが収まった後は緊急対策会議となったが、筆者はメンバーではないのでテレビをずっと見続けた。海洋型地震の尤も恐れるのは津波である。果たして映像で大津波が襲ってきたのである。SF映画の様な信じられない光景で、次々に船舶が流され、家屋は破壊されて行った。

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